夏の甲子園の歴史を紐解く|甲子園球場100周年を迎えた高校野球

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今年も、高校野球が熱いですね!!

野球をやっているうちの子も、高校野球はよく見ています。

ところで、今年は甲子園球場が完成してから100周年なんですね!!

そんなに長い歴史があるなんて知りませんでした。

ので、甲子園の歴史が気になったので、調べてまとめてみました。

この記事では、夏の甲子園の歴史や甲子園球場の基本情報について紹介しています。

高校野球の応援も熱いけど、大会の裏側も知ると、より高校野球を楽しめるようになりますよ。

目次

夏の甲子園って?

「甲子園」「夏の高校野球」などいろんな呼ばれ方をしますが、正式名称は全国高等学校野球選手権大会です

ちなみに主催しているのは朝日新聞社と日本高等学校野球連盟です。

今年、甲子園球場が完成して100周年を迎えましたが、全国高等学校野球選手権大会の名称になる前の全国中等学校優勝野球大会から数えると、今年は106回目の大会となります。

夏の甲子園のはじまりは?

最初に夏の甲子園がはじまったのは、1915年(大正4年)です。

夏の甲子園と言いましたが、最初は甲子園ではなく、大阪の豊中グラウンドで開催されています。

現在は、全国から選抜された高校が出場していますが、1915年に集まったのは10校です。

東北、東海、京津、関西、兵庫、山陽、山陰、四国、九州の代表校+春の東京大会優勝校が集まりました。

当初の夏の甲子園の問題点

始まったばかりの甲子園では、色々問題もあったようです。

甲子園の開催を伝えられていなかった地域があった

実は、東北地区は甲子園の開催を主催者側から伝えられていませんでした

ですが秋田県はいち早く情報をキャッチし、出場したい旨を主催者側に伝え出場が叶いました。

しかし、秋田以外の県は出場できずに終わったそうです。

ともみ

現在のような情報伝達をする手段に乏しい100年前では仕方のないことのようにも思えますが、当事者はモヤモヤしますよね。

ちなみに、甲子園出場条件に「予選を行って代表校を決めること」が条件にあったそうですが、秋田県内のたった3校のみで予選を行い、代表校を決めたそうです。

ともみ

この決め方にも批判が殺到したそうですが、秋田勢がキチンと結果を出し、批判を治めたそうです。

参考:【高校野球100年 発掘・事件史】「第1回全国大会」開催知らせず 秋田県3校で「東北予選」5県を出し抜き地区代表|zakzak by 夕刊フジ

地域による代表枠の割り振りの不平等性

甲子園が始まった頃は、地区の割り振りが不平等ではないかとの意見もありました

たとえば九州の4~5県の中で代表枠1校という時期もあったのです。

都道府県により人口の差はありますが、4~5県から1校だけでは、ものすごい競争率ですよね。

熾烈な競争率の地域もあれば、兵庫県は開催地区だから、という理由で、毎回特別枠が設けられている時期もありました。

グランドの規模問題

当初使用されていた豊中グランドは、規模の小ささが問題視されていたようです。

また、当時は大会遠征費は出場校が負担することになっていたため、期間短縮や開催グランドを複数にするなどの意見が出ていたそうです。

そして第3回から、開催グランドを変更したのですが、野球人気から観客であふれかえり、観客がグランドになだれ込む事件なども起きました。

そこで当時の主催者である大阪朝日新聞社が本格的な野球場の建設を提案し、甲子園球場建設が計画されました

甲子園球場の基本情報

甲子園球場について知らない人へ、まずは甲子園球場の基本情報を紹介します。

正式名称阪神甲子園球場
所在地兵庫県西宮市甲子園町1-82
総面積約38,500㎡
収容人数47,808席
(内野:28,765席、外野:19,043席)
所有・管理阪神電気鉄道
アクセス阪神電車「甲子園駅」から徒歩3分
阪神バス停留所「甲子園駅」から徒歩3分
※甲子園球場内に駐車場はありません
甲子園球場の基本情報

甲子園球場について詳しくしりたい人は、公式ホームページをご覧ください。

甲子園球場の気になるところにもお答えしますね。

甲子園球場が完成したのは?

1924年(大正13年)に完成。

8/1に竣工式が行われた。

なんでツタが覆っているの?

コンクリートの外装が殺風景だったから。

手っ取り早く増えるツタが採用された。

阪神淡路大震災の被害は?

アルプススタンドのひび割れやグランドの地割れがあった。

が、開催が危ぶまれた3月の選抜大会は実施できた。

甲子園参加校代表枠の変遷

甲子園参加枠の変遷を紹介します。

記載していない年も参加校の増減はありましたが、主なところを表記してあります。

1915年
第1回:10校

東北、東海、京津、関西、兵庫、山陽、山陰、四国、九州の代表校+春の東京大会優勝校

1926年
第12回:22校

北海道、奥羽、東北、北関東、南関東、東京、神静(神奈川・静岡)、東海、甲信越、北陸、京津、大阪、兵庫、紀和、山陰、山陽、四国、北九州、南九州、朝鮮、満洲、台湾

1942-1945年
第二次世界大戦の影響により中止

この3年間は開催されず

1946年
第28回:19校

敗戦により日本の統治が終了したため、朝鮮、満洲、台湾の3枠を削除

1958年
第40回

一府県一代表制になる

アメリカ統治下の沖縄の出場も認められた

1959年
第41回:48校

参加校の多い北海道は北北海道と南北海道から各1校の参加枠を付与

1978年
第60回:49校

参加校の多い東京都は東東京・西東京から各1校の参加枠を付与

以降は、1府県1校・北海道と東京は2校の49代表制となった

その後、参加校が多い府県では2代表制にする年もありますが、基本は49校の代表制となっています。

まとめ

夏の甲子園の歴史や甲子園球場の基本情報について紹介しました。

毎年何気なく見ていた高校野球ですが、その裏側には長い歴史や物語があるんですよね。

歴史を知れば、違う視点で野球を楽しめたり、実際に甲子園に行ってみたくなりますよね!!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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